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平成13年2月5日 大分県高等学校PTA協会総会での講演内容

目標を持って生きることの大切さ
平成13年2月5日 辛島裕樹

(一部訂正、省略をしてあります。)

@(はじめに)

 皆さん、こんにちは。今回、このような名誉ある場に僕を招いてくれたこと大変感謝しています。ありがとうございます。
皆さんの多くは本になった「あの橋を越えたら」で僕の事を知ってくださったと思います。
高校3年まで「普通の生活」を送っていた僕が、脳腫瘍の手術を受けたその瞬間に180度それまでと違う世界を体験しなければならなくなったこと・・・ほとんどすべてが経験のないことばかりでしたが何とか今日まで生きていること・・・また、それは僕だけの問題ではなく、どんな人にも起こる問題だということを知ってもらいたくて今回お話をさせていただきます。どうかよろしくお願いします。

 手術を受けて、早7年。今までいろいろなことがありました。正直言って失ったものはたくさんありました。何度、手術を受けないで健康なままだったら・・・と思ったことでしょう。ですが、手術を受けてから得たこと・・・受けなければ得られなかったこともたくさんありました。最近、何度か口にした言葉があります。
脳腫瘍は大変な病気です。それを患ってしまったことは確かに不幸ですが・・・なぜか今が幸せすぎると思えてなりません。

 今も手術前も性格的にはなんら変わりはありません。ごく普通の17歳の少年が24歳の青年になっただけです。ただ、17歳のころにはなかった「何か」が今の僕を支えています。その「何か」は特別な才能がなければ得られないものではなく、どんな人間でも得られると僕は思います。しかし、普通の生活の中で何も気にしないで生きていては、その「何か」を得ることはできないと思います。僕は自分が障害者になって得た「何か」を健常な人、特に可能性が無限大な若い世代の人へ伝えることができたらと思います。その「何か」を、障害を負ってから気づいた僕はある意味遅かったかもしれないからです。できれば健常な人に・・・健常なときに、その「何か」を得てほしいのです。僕は最近こう思います。

ある出来事を大したことないと思える事は幸せな証拠ではないか?だから人間はできるだけ多くの出来事を大したことないと思えるように日々精進するのではないか?」障害を負うと、今までは大したことではなかった事が大した事になる場面があまりにも多くあります。そんな時、初めて自分が健常だったときの幸せを感じ、ものすごいチャンスを握っていたんだと実感します。

 健常なときにはわからない幸せ・・・・・「歩く」「笑う」「食べる」「トイレで用をたす」「寝る」「遊ぶ」「夜更かしする」「お酒を飲む」「タバコをすう」「本を読む」「毎日お風呂に入る」「髪を洗う」「つめを切る」「歯を磨く」「泣く」「大声を出す」「他人の悪口を言う」「コンビニへ行って暇をつぶす」「誰かに電話をする」「文字を書く」「話す」「ストローを使ってジュースを飲む」「頭をたたかれて痛い!と感じる」・・・。そういうことがなに不自由なくできる健常な人が、僕が伝えたい「何か」を得ることができたら少なくとも障害を負った僕よりは未知なる可能性があると思うのです。
 その際、この話をした人間は「普通の人間」であることをわかってもらい、老若男女、すべての人が「私にもできる!」と思ってくれたらうれしいです。

 これから本題に入りますが今からお話することは、ほとんどすべて僕が抱く勝手な考え方であって、間違ったことをえらそうに言うかもしれません。また話し方が、命令的な部分があったり、差別的表現のある部分があるかもしれませんがどうかご了承ください。また、万が一そのような部分があったら後でそっと教えてください。今後に活かしていきたいと思います。よろしくお願いします。

 最初に手術前の出来事を少し詳しく話していきたいと思います。そこから「な〜んだ。辛島裕樹って大したことないじゃない!」と思ってほしいんです。僕はそういう人間です。ただ、その後で本(あの橋を越えたら)に記したことを簡単に話し、僕が伝えたい「何か」を感じ取ってもらったとき「な〜んだ。私にもできそうじゃない。」と思ってほしいんです。そしてその考え方、生き方をあなたの周りにいる多くの人へ伝えていってほしいと思います。少し大げさかなと思いますが、今回の講演でそこまで皆さんに感じてもらえたらいいなと思っています。
A手術前の僕


 昭和52年2月、僕は大分市に生まれました。幼いころはものすごく体が弱く、転んだ拍子に骨折をしたり、風邪をよくひいては家族の人を困らせていました。さらに「小児喘息もち」でひどいときは2週間ほど入院をしたほどでした。小学校の高学年のころはそれが原因で年間100日以上休んでいた記憶があります。ですが、人並み程度の友達がいて、よく遊んでいました。勉強はあまり好きではなく、うまくもないのにスポーツをしていました。先に述べましたが、少し「変わった性格」だったので、面白半分で人が寄ってきていたように思います。学校を休むことが多かったのですが、常に僕の周りには笑いがありました。

 大分市役所の手前にある荷揚町小学校に入学してからは家族の勧めもあってスイミングスクールに通ったり、少年野球チームに所属していました。ですが、あまり熱心にやった記憶はなく、当時、はやりだしたファミコンで毎日遊びほけていました。人を笑わせるのが好きでした。今、毎週テレビで活躍している「つだつよし」君は幼稚園から高校まで一緒で、一度漫才をやったこともありました。今となっては本当にいい思い出です。

 「はやりもの」も大好きでした。ビックリマンというお菓子についてるシール集めに熱心になったことがありました。シールを取ったらお菓子は捨てていたような記憶があります。今思うとすごくもったいなかったと後悔しています。ファミコンがはやる前は「こま回し」や「パッチン」をして遊んでいました。遠足などのときは、歩きながら友達とおしゃべりするのが大好きでした。その反面、勉強は嫌いでした。ただ、人並み程度の学習はしていました。学校を休むことが多かったということもありますが、みんなにおいていかれることは絶対にいやでした。

 平成に年号が変わった年、僕は碩田中学に入学しました。そのころ僕にも年相応で思春期がやってきました。当時は、とにかく目立って女の子にもてたい一心で生徒会活動などで人前に立つことが多くありました。今考えたら、よせばよかったのに高価なオーディオを買いました。これは僕に自分の意志がほとんどなく、人に流されっぱなしだったのがわかる良い例だと思います。当時の僕にはオーディオなど必要なく、CDラジカセで充分だったでしょう。ただ、見栄えや人当たりを気にしすぎていたのです。

 中学生になっても小児喘息は治っていませんでした。小学校高学年のころよりは少し落ち着きましたが、依然、欠席日数は多く、頼りなさが軟弱な体つきにも現れていました。水泳部を3年間やめずにいましたが、どちらかというと幽霊部員で、まともに練習したことなんて数えるほどしかありませんでした。

そんな僕が高校受験を迎えました。当時、僕には将来どんな仕事がしたいのか?どんな事に興味があるのか?なんて一つも考えてはいませんでした。自分の学力で合格できそうな高校の中で、仲の良い友達が多く受験する高校を志望校に決めたのです。それが大分舞鶴高校でした。何とか無事に合格を決めたのですが先ほども言ったように僕には将来の目標がなかったので学校生活になかなか楽しみを見つけられずにいました。

 人は何か目標や守るべきものがあると強くなれると思います。当時の僕にはそういうものが一つもなく、きついことやいやな事に負けない強さがなかったのです。
 毎日のように夕方、授業を受け終えフラフラになりながら自転車をこいで弁天大橋をわたっていると大分川の水面に色鮮やかな、いくつものカヌーが浮いているのが見えました。僕は瞬時に「気持ちよさそうで楽そうだな」と思いました。「毎日、何の目標もなくカリカリ勉強するよりも、カヌーであんなふうにプカプカ浮いていたら楽しそうでいいじゃないか!」僕がカヌー部に入部を決めたのはこんな軽い考えだったのです。

 それに加え、小児喘息を治したいという思いがありました。20歳までに良くしなければ小児喘息が喘息になって一生良くならないといわれていたからです。さらに従兄弟が実際に現役のカヌー部員で、新聞をにぎわす一流選手でしたので「僕もあ〜なれたら」という思いもありました。ただ、実際カヌー部の門をたたくと、理想と現実とのギャップにさいなまれます。

 堀田監督は女性の方でしたがカヌーに関しての情熱はまさしく男勝りで指導はものすごく厳しいものでした。僕はいつ自分がやめるか不安でたまりませんでしたが、いつしかカヌーそのものの魅力に取り付かれすべてを注ぐようになっていました。その最たる理由はカヌー部の部員や監督などの暖かい人柄でした。僕の家庭環境は小さなころから、それほどよくなかったのもあって、カヌー部の居心地のよさがよくわかったし、カヌー部にいるとそんな家庭環境を忘れることができました。

 ただ、カヌーにすべてを注いだといっても、結果がすぐについてきたとはいえませんでした。1年生のころは体自体ができていなかったので問題外でしたが2年生の中ごろになると、体が出来上がり小児喘息は出なくなっていました。更に信じられないくらいカヌー技術が向上していたのです。そのころからようやく、結果が残せるようになってきました。それは必ずしも僕が速くなったわけではなく、速い仲間と組む機会が増えたからでした。

2年生の後半、大学受験を気にしなければならなくなりました。カヌー部の堀田監督は「カヌーが速いだけでは駄目なんだ!」と僕らに文武両道の生き方をしなさいとよく言われていました。僕は勉強が嫌いでしたが、その精神を守り頑張りました。しかし悩んだ末、著しく成長したカヌー技術で大学へ行こうと決めました。だから僕は、3年の大きな大会で結果を残して大学をスポーツ推薦で行こうと決めたのです。多くの人がその考えに反対でした。ただ当時の僕には以前のように自分の意志が弱かったわけではなく、自分が決めた事に挑戦していける強さが少しだけありました。それはまがりなりにもカヌー部をやめなかったからだと今思います。僕は早朝に新聞配達をし、体を鍛えました。僕は本気で全国規模の大会で賞を取って大学をスポーツ推薦で行こうと決めたのです。

 3年になると、体の調子が優れない日が多くありました。食欲がなかったり、吐き気があったり、実際に胃液を吐いたりと考えようによっては夏ばての症状が起きていたので、十分な休養を取ろうと思い、カヌー以外は寝ていることが多くなりました。今考えたら十分すぎる休養を取っていたから僕は死ななかったのかなと思うことがあります。
7月ごろは本当に厳しい時期でした。後頭部にはげしい頭痛が起きることが頻繁になってきたからです。でも、それを単なる夏ばてだと思えたのは、目前に目標にしてきたことが迫ってきていたからだと今思います。
 8月、僕は全国大会で好成績を残すことができました。4人乗り競技の最後尾の選手として参加したレースで全国2位の栄冠を得ることができたのです。運良く4人乗りのほかの選手がすばらしい選手ばかりで本当に助かりました。あのときほど3年間やめないでよかったと思った瞬間はありません。

 人間と言うのは幅広い視野を持っていなければならないと僕は思います。中学校までは義務教育であり、ほとんどすべての人間は半ば強制的に教育を受けなければなりません。最近は低年齢の時に大金を稼ぎ出す人をよく見かけます。社会全体が即戦力を重視する世の中で義務教育なんて無意味な時間つぶしではという声を聴くこともあります。ですが、僕は必ずしもそうは思いません。義務教育の幅は広く、中学生までの人間は体が大人びていても頭は子供です。義務教育の幅広い選択肢の中でゆっくり自分の適性を見出していけると思うからです。才能豊かな人も中にはいますから全体の数パーセントの人間は早くから社会に飛び立つかもしれませんが、教育というのはそういう人を対象にしてはいけないと思います。

 そういうわけで、こんな僕でしたがしっかりと義務教育を受けていたおかげで、高校生活の中での人付き合いや考え方で困ることはありませんでした。最近やたらに多い17歳の少年犯罪。犯行の動機は本当に子供じみています。そういう人間はきちんとした教育を受けていなかったからではないでしょうか?
 9月になり、僕は久留米大学のスポーツ推薦を受けました。高校に入学するまでは、体も病弱で運動能力もずば抜けた部分がなかった自分が、体を作って、カヌーでいい成績を残せ、おまけに大学進学をスポーツ推薦で挑もうとしていることは何ともいえないものがありました。カヌーにすべてを注いだ3年間は自分にとって大変大きな糧となりました。しかし、最後の最後に自分自身の今後の人生にかかわる出来事が起ころうとは思ってもいませんでした。

B手術後の僕


 9月下旬、久留米大学の試験を終えた僕は病院にいました。以前からあった頭の異常がどうしても我慢できなくなっていたのです。そこで脳神経外科に足を運んだわけでした。最初は、自分自身が重大な病気を患っているとは思いもしていませんでした。ただ、それまで何度も内科で診察を受けても改善しない症状に多少の不安を抱いていたのは確かです。高校3年の9月というのは人それぞれでずいぶん状況が違っていると思います。そのころ大学が決まっている人間にとっては卒業までバラ色の時間といってもいいかもしれません。逆に今からが正念場という人にとっては地獄の始まりでもあります。僕にとっては、どちらかというと前者の方で卒業までのバラ色の時間をいかに過ごそうかと悩んでいたといっても過言ではありません。そういうときに自分自身が重大な病気を患っていて、卒業までのバラ色の時間を拘束されるのみならず、生きるか死ぬかの状態を味わうことになろうとは考えられるはずもありませんでした。

 しかし、いくばくかの時間が流れ自分が「脳腫瘍」を患っていると知ったとき・・・皆さんは意外に思われるかもしれませんが、僕はいつもと変わらず「あっけらかん」としていました。もし、僕が当時、脳腫瘍という病気に少しでも知っている部分があり・・・興味のない勉強ばかりしていて・・・カヌーもしないで自分自身の今に自信がなかったら、そこで人生は終わっていたかもしれません。僕は思いつめたら考え込んでしまう性格なので、それはあながち間違いではないように思います。実際、僕の状態は一刻の猶予も許されない緊迫としたものがありました。手術を受けたのは10月初旬のことでしたが年内にしなければ命はないといわれていました。

 手術後の治療やリハビリは自分にとっては大変こくなものでした。当時、僕は自分の脳腫瘍が悪性だとは知らされていませんでした。悪性とは、良性腫瘍のように手術を受けたから終わりではなく、術後の治療は厳しいものがあり、再発の可能性も高いのが特徴です。当時、自分が悪性だと知らされないで、「手術は100パーセント完璧に成功した」というのに、なぜ、その後も治療を受けなければならないのかがわかりませんでした。手術は成功したのに、左半身は麻痺し、声を出せなくなっている自分がいました。まがりなりにも現役高校3年生だった僕・・・やってみたいことはたくさんありました。特に幼少のころから体が弱くて出来そうになかったことがこれから出来そうと思った矢先のことであり、何ともいえない悔しさがありました。

 僕の家庭環境はあまりよくはなく、手術を受けるまでは父親との仲があまりいいとはいえませんでした。ですが自分が体を壊したとき、初めて父親のありがたさを知りました。父親に限らず、家族や親戚、また友達や知人の暖かさが痛いほどわかりました。四六時中、同じ状態で誰かと接していたらその誰かの一面しか見えません。それが自分にとって好ましくないと感じたとき、必ずしもそうなのか一度よく考えてほしいと思います。人は一人では生きれないといいます。では自分がそこまで成長できたのはなぜなのか?よく考えてみたらわかるかもしれません。

 左半身が麻痺したとき・・・声が出ないとわかったとき・・・正直言って落ち込みました。ただ、そこで人生をあきらめたわけではありません。家庭環境のこと、3年間やめずにやってきたカヌーのこと、長い時間かかったけど良くなった小児喘息のことを頭に思い浮かべると、半ば意地もありましたが「絶対によくなってやる!」と思いました。辛島裕樹だから・・・あの頼りがない辛島裕樹だから・・・自分の意志がない辛島裕樹だから・・・だから死んだんだと思われたくはありませんでした。家庭のことを考えると、良くなるのであれば自分のことがすべて自分でできるレベルまで良くならなければと思いました。それは何も家庭のことだけを考えたからではなく、年齢的なものもありました。まだ20歳にもなっていない自分が寝たきりになってどうする?家族の世話になってどうする?と思っていたのです。

そこからでした。そこから7年余り・・・。本当にいろいろなことがありました。大きな出来事は何といっても車椅子マラソン大会で42.195kmを完走したことでしょう。これはすばらしいことで、脳腫瘍患者に限れば世界的にも例のないことかもしれません。
車の免許を6ヶ月かかって取得できたのもいい思い出です。よく、車は金食い虫だといいますが、確かにそう思うときもあります。しかし、車を持つことで一般社会に自分がいることを実感でき、将来を見据えることができるようになったことは確かです。
 左半身麻痺から立ち直ったのは地味そうですがすごいことです。僕の左半身麻痺はきちんとしたリハビリをすれば医学的にも動くようになるというお墨付きをもらっていました。ですから良くなったのは必ずしも奇跡ではありません。ただ、左半身が動かなくなったあのとき・・・それを正面から受け止め、辛いリハビリに耐えうる強い意思がなければ成し得なかったと思います。

 声を取り戻したのもうれしいことでした。これは左半身麻痺よりも、良くなる可能性は高く、ほぼ100パーセントでした。長時間の手術のときに、気管に入っていた酸素チューブなどで声を出す場所が一時期荒れただけだったからです。でも、これも左半身麻痺と同じで今をしっかり受け止めていなかったら回復が遅れたのかもしれません。どんなことでもそうですが、その事に精通している人からすれば簡単なことというか、他愛のないことは少なくありません。でも当人に関したらそれは一大事であって、簡単にはいきません。大事なことは心がけではないでしょうか?駄目だ駄目だと思ったら本当に駄目かもしれません。ですが駄目そうだけど大丈夫なんだと思えば大丈夫な事になるかもしれないのです。

 手術を受けたのは大分医科大学病院でした。集中治療が終わって、一時久留米大学へ入学しましたが、再び大分医大に入院しました。途中、アルメイダ病院へも転院しましたが何とか回復し、別府にある農協共済リハビリセンターへ入所しました。当初は歩けるリハビリを受けようとやってきたのですが数ヵ月後に、「歩くのは困難」と告げられ、シブシブ車椅子で日常生活を送れるようにリハビリ訓練を受けました。車椅子で誰の手助けも受けずに生きていくのは簡単ではありません。慣れればたいした事はないのですが、僕には慣れるまで時間がかかりました。

 車椅子生活をしていくと、少なからず他人から偏見を受けるようになります。健常な人の何気ない行為が僕ら車椅子使用者にとっては辛い事になる場合があります。車椅子使用者自体が珍しいので仕方ありませんが、じっと長い間見つめられるのもそのひとつです。ですが、それらがいやだったら社会に進出できません。社会は変わらなければなりませんがすぐには変わらないでしょう。だとしたらそういう社会に自分が出て行ってもストレスを感じてはなりません。一般社会に飛び立つのならば自分自身が変わらなければならないのです。そういうこともあって、僕が車椅子ながら自立することができ、今回、皆さんの前にいるということは誇っていいことなのかもしれません。

 再発を経験したのは平成11年8月のことでした。当時、僕は障害者しか行くことができない学校へ通っている最中でした。翌年3月の卒業までに仕事を見つけるつもりでした。それなのに、再発して仕事はおろか、学校をやめざるを得なくなったのは何ともいえない寂しさがありました。それから学校を中退し、治療に専念した僕は思ったより早く回復しました。いろいろ悩んだのですが昨年もう一度学校を受験し、今も学校で勉強しています。そんな僕を「明るくて前向きに生きているね!」という人が多いですが、それは病院で様々なことを考え、学べたおかげなんだと思います。

 最後に、入院していて学んだことや考えたことを皆さんへ伝えられたらと思います。

C最後に


 これまで話をしてきてどれだけ皆さんに思いを伝えられたのか不安ですが、いかがでしたか?手術を受ける前は「辛島裕樹は普通の人間だった」事をわかっていただけたらうれしいです。僕は今も「普通の人間」に変わりはありません。ただ、見かけは車椅子に乗っている障害者です。さらに悪性脳腫瘍を患い手術を受けた人間です。僕にとってこれからは必ずしも楽ではありません。考えれば考えるほど不安は募るばかりです。ただ、自分の人生です。他人が決めるものではありません。だったらなおさら自分の意志をしっかりもって強く前向きに生きることが大切ではないでしょうか?

 今まで何度か経験した入院生活の中で、たくさんの看護婦さんの世話になってきました。手術直後は左半身が麻痺し、声を失いましたので看護婦さんがいなければ僕は何もできなかったでしょう。ご飯を食べさせてもらったり、お風呂に入れてもらったり、つめを切ってもらったり、話し相手になってもらったり・・・。そういうことを友人に話すと決まってこういわれます。「お前はいいな〜」と。看護婦さんというのは僕らの年代からしたら、少し的が外れた「白衣の天使」でしょう。そういうことから僕の友人は「いいな〜」というのです。ですが、僕はそういうふうに看護婦さんを見れません。これは24歳の男として大変残念なことでもありますが、命の恩人でもある看護婦さんをどう考えてもそう見れるわけがありません。

 経験をしていなかったらそのことを軽視してしまうのが人間です。他人のことがやたら良く見えるのも人間です。しかし実際はどんなことでも簡単なことはなく、ドラマがあります。そのドラマを知ったとき、人は変われるのかもしれません。
 今回は看護婦さんを例にしましたが、僕がいいたいのは看護婦さんに限らず、イメージばかりを先行させないで、その人や物の本質を見抜いてほしいということです。それには多少の時間がかかります。最近の人はすぐに結果を求めすぎます。思い立ったとき、結果がついてこなければあきらめてしまいます。それでは夢があっても叶うはずがありません。

 僕が今までかなえてきた夢は時間がかかって成し遂げたことが大半です。その過程は情けないほど悲惨でした。まちがっても。夢実現が「簡単だった」とはいえません。つまらない失敗を何度もしましたし、些細なことで落ち込みました。ただ、僕は「あきらめる」ことはしませんでした。常に目標を掲げ、それが自分にとってすごく苦しく、過酷な道であっても、あきらめないで、挑戦していけば必ず結果は出せると信じているからです。最近の若い人も、今こうして話をしている僕と同じ「普通の人間」ならば僕と同じように「できる」と思います。目標なんてなんだってかまわないと思います。他人からどう思われようが自分の決めた目標に自信を持ってください。そして・・・「あきらめないで」ください。

 しかし、その結果がすべて目標達成につながるとはいえません。僕は今障害者だけが通える学校にいるといいました。学校行きを決めたとき、僕は建築設計科に所属しCADオペレーターになりたい(パソコンを使って製図する技術者)と思っていました。しかし、元来文系人間である僕には難しい面が多く、半ばあきらめがちです。ただ、ひょんなことからホームページ作成に魅力を覚え、今はそちらを重点的に勉強しています。
目標がCADオペレーターだとしたら、目標は達成しなかったといえるかもしれません。ただ、その代わりに興味のもてることを見つけることができ、今夢中になってるということは学校行きを選んだ事に間違いはなかったと思うのです。

話は少し横道にそれますが、就職は超氷河期です。僕の通う学校の就職内定率は現在30パーセントもありません。僕も就職が決まっていない身です。以前は職種にこだわっていましたが、勤務地やら賃金やら通勤時間やら・・・こちらが要求することが増えれば増えるほど就職はむずかしくなっていきます。今回、こんな話をするのもなんですが、もしこんな僕を雇ってくれる会社があったら教えてください。どんな職種であっても頑張っていきたいと思います。どうかよろしくお願いします。

 さて・・・話を本題に戻しますね。どうもすみません。
学校教育や家庭環境が良くないから・・・だから子供はうまく育たないのでしょうか?
僕は一概にそうは言えないと思います。確かにそういう部分はあるでしょう。でも根本的には当人である子供のほうに問題がないでしょうか?人は一人では生きていけません。その意味をきちんと理解していないのではないでしょうか?僕は7年前に脳腫瘍のために手術を受けてから、本当にたくさんの人に支えられここまで生きてこれました。いろんな分野の人とうまく付き合っていけたから今の僕があります。

 どんな人間も、どこかに才能が隠れています。それをしっかり自分に吸収していけば、どんな人間でも「できる」と思います。そのためにも誰に対してもきちんとした対応ができ、自分の意思を伝えることが大切だと思います。その際、僕が「手術からの7年間」のうちにつかんだテクニックを参考にして、できる限り楽に「できる」人間へと近づいてほしいなと思います。

 まず一つ目は常に明るく笑顔で接することです。そうすれば相手も自分の才能をうまく伝えてくれるはずです。僕はきつい治療やリハビリの際、極力笑顔を振舞ってきました。それは最初は無理やりでしたが、いつしか自然に出るようになりました。笑顔の威力はすさまじいものです。きついとき、苦しいとき、無理やりでも笑顔を作れば周りはパッと明るくなります。さらに一番パッと明るくなれるのは自分自身で、これはどんな薬でも代用できない効果があるはずです。

 2つ目はきちんとした言葉づかいではっきりと自分の意見を言うことです。言葉に自信があれば口調ははっきりし、少なからず大きな声になるのが人間です。それを逆手にとって、自分の意見に自信がなくてもはっきり大きな声でしゃべればそれだけで事がいい方向に進むことがあります。最近の若い人が苦手なのがきちんとした言葉づかいだと思います。友達と話す感覚で年上の人と会話をしてしまいがちですが、それではなかなかうまく事は運びません。まず、年上の人は自分よりも長い間生きていることを知ることです。その間、結婚して、子供がいて、仕事をして、貯金をしていたのならなおさらです。

 若いうちは体力もあり、簡単に物事ができてしまいます。ですがそれはある意味錯覚に過ぎません。20歳を超えていない未成年はなおさらです。誰かに支えられているからこそ、できることが多いんだということを知らなければなりません。そうすれば礼儀作法なんて知らなくてもそれなりの対応ができるはずです。僕も、最近は少しマシになりましたが、以前は常識を知らない人間でした。「あの橋を越えたら」の中に誤字脱字が多いですが、何度も見直しをしたはずがこのザマで本当に恥ずかしく思います。ただ、今は少しずつですが言葉づかいや礼儀作法を勉強しています。それは言い換えたら、ようやく社会に足を踏み入れた事になるのかもしれません。

そして最後になるのですが挑戦をはじめてすぐに結果は出ないことを知ってほしいと思います。その過程が汚かったりみすぼらしかったとしても、叶えてみたい夢が本当に自分にとって大切であれば一つも気にすることはないということも知ってほしいのです。僕が車椅子マラソンで42.195kmを完走できたのは3年間練習をつんできた集大成です。最初は競技用の車椅子をうまく走らせることすらできなかったことを知ってください。そのような、「華やかさのない下積みの時間」に負けない強い意志をもってください。そうすれば必ず夢は実現できます。

 社会は厳しいと思います。何の苦労もしなくて・・・受身の態勢で・・・物が手に入ることなんてまずありません。仕事を例にとったら、教えてくれる環境なんてほとんどありません。自分で考えて解決策を見出していく。それは何も仕事に限ったことではなく、生きていくのであれば当然のことです。それが成人した人間の使命でもあります。考えるということ・・・これは案外難しいことだと思います。特に社会に出た経験のない人間には難しいでしょう。ただ、自分に負けそうになったとき、僕はこの言葉を信じて生きてきました。もし、皆様方が何かにつまずきそうになったとき、この言葉を忘れていなかったら何度か言葉に出してみてはいかがでしょうか?これはカヌー部恩師の堀田監督が好きな言葉で、僕が手術を受けてからこれまで何度も救ってくれた言葉です。その言葉は「意志あるところに道は開ける。」

 最後の最後に、自分のことのようで恐縮ですが障害者に対する偏見が多いのはすごく残念です。そこで今日は3つだけわかってもらいたいことがあります。

 1つ目は障害者にはいろんな人がいることです。何かマニュアルがあったらそれがまかり通る障害者なんてそれほどいません。大切なのは健常者が勝手に判断し、手を貸すのではなく事前に当人である障害者に「どうしてほしいか?」聞くことです。そうすればどこまで手を貸せばいいかわかるはずですし、手を貸さないことも大事だということがわかるはずです。

 2つ目は障害者は健常者よりも、かわいそうでもないし、偉いわけでもありません。障害者と健常者は同等です。健常者に才能豊かな人がいるように障害者の中にも実に多くの才能豊かな人がいます。そういう人は障害者だから才能豊かというわけでなく健常者と同じ人間だからということをわかってください。僕は障害者ってなんだろうな?健常者ってなんだろうな?と考えることがあります。今まで述べた考えをまとめれば障害者というのは機能的なハンデがあるからではないで自分の意志がなく、自分のことが自分でできない人を言うのではないでしょうか?ということは機能的なハンデがあっても自分の意志がしっかりしていれば、それを障害者というのは間違いで健常者といってもいいのかな〜と思います。

 3つ目に障害者にはたくさん魅力ある人がいます。そういう人へ自分と同等の立場でたくさん話をしてほしいと思います。そうすることが、あなたにとって大きなプラスになることは間違いありません。
最後の最後は私事になって大変申し訳ありませんでした。   

 今回の講演内容がこの場にふさわしかったか少し不安がありますがいかがでしたか?僕は手術からこれまで生きるためだけに戦っていた感じがあります。ですから、まだまだこれからたくさんの経験をしなければなりません。今回お話したことは生きるために戦ったときに感じた思いや、テクニックであって、一般常識的なことは知らないことばかりです。更に、まだまだ24歳の若造がこんな場でえらそうに講演ができるとも思えません。ですが次回こういう機会があったとき、もう少し人間的に大きくなってスイスイとえらそうなことがいえるように・・・これからも頑張っていきたいと思います。今回の講演が少しでも皆様方の今後のお役に立てれば幸いです。本日はこんな貴重な体験をさせていただき大変感謝しています。ありがとうございました。
またいつの日か、皆様方の前に立てる日を楽しみにしております。失礼いたします。

辛島さんのHP  http://www4.ocn.ne.jp/~kara/
[あの橋を越えたら]は全国出版物ですのでどこでも買うことが可能です。
ですが、出版から半年以上が過ぎた今、本屋さんで見かけることはほぼないでしょう((笑)だから・・・

以下に記したから3項目からあなたにあった方法で[あの橋を越えたら]をゲットしてね!
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書 名

あの橋を越えたら
ISBNコード 4−8355−0713−4
本体価格(税抜き 1300円
著者名 辛島裕樹
出版会社 文芸社
A文芸社のホームページからインターネット注文をする。
文芸社ホームページへ

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電話番号は→ 03−3817−0711
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